加藤 忠広(かとう ただひろ)は、江戸時代前期の大名。肥後熊本藩の第2代藩主。
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慶長6年(1601年)、加藤清正の次男として生まれる。兄の忠正が早世したため、世子となる。
慶長16年(1611年)、父の清正が死去したために熊本藩主を継いだ。若年であったため、藤堂高虎が後見人を務めたと言われている。しかし父と違って統率力に欠け、家臣団を完全に掌握することができず牛方馬方騒動など重臣の対立が発生し、政治は混乱したと言われている。
寛永9年(1632年)5月22日、江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主酒井忠勝にお預けとなった。
その後は出羽丸岡に1万石の所領を与えられ、1年遅れで丸岡に赴いた母・正応院とともにそこで余生を送った。丸岡は堪忍料であり、年貢の取立てなどは庄内藩の代官が行ったので、配所に赴いた家臣20名は専ら忠広の身辺に仕えた。忠広は、鬱憤を紛らすかのように書をしたり、和歌を詠んだり、金峯山参拝や水浴びなどをしたという。また、哀れに思い、酒井忠勝はたびたび在所を訪れたという。慶安4年(1651年)6月に母が没した2年後の承応2年(1653年)に1ヶ月程病に伏し、出羽丸岡にて酒井忠当に見取られて死去。享年53。墓所は山形県鶴岡市の本住寺。家臣の加藤主水は剃髪をし僧侶となり、忠広の墓守になったがのちに乱心したという。また、家臣のうち庄内藩に召抱えられたものもおり、その子孫は幕末まで庄内藩に仕えている。